昭和52年07月06日 朝の御理解



 御理解 第53節
 「信心すれば、目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。知ったおかげより知らぬおかげが多いぞ。後で考えて、あれもおかげであった、これもおかげであったということがわかるようになる。そうなれば本当の信者じゃ。」

 それで昨日お昼の時の御理解もここでしたね。目に見えるおかげより、目に見えぬおかげの方が多いと言う、多い方のおかげをいかに拙速に神様は仰ったと、目に見えたのはある人には願ったけれど。その有り難いというおかげを受けたと、今にも神様のおかげを( ? )それがおかげ、言うものを皆んながおかげであると、ここにはっきり自分の心でで受け止められるようになったら、いよいよ神が( ? )なることが分かって来る。そこにならいわゆる真実の神様の( ? )。
 昨日もだいたいあそこは活字に示された事で、昨日はここの53節を私は御用させて頂き、御心眼に風間鳥を詠った。そしてあのう今日の御理解をぜんざい会や「はやま」先生や青年会ね、( ? )神様がそれをこうしてこううつ( ? )も( ? )( ? )ばっかしで、それで私はそれから頂いた御理解が( ? )そばに書いてありますように、あれもおかげであったこれもおかげであったと、本当に分かったような、それには大変な自分を発見する事とある。
 たいていがね、自分がよかとのごと思っとられたら絶対あれもおかげこれもおかげじゃ分らん。そこに信心の奥の深さに( ? )にゃ、その勿論こそその深さをこう見たらと自分が最低、最低の自分だなぁと分かって来るから、最低のところからいっちょこの上は全部がおかげと言うよりは、こんな最低の自分に神様はこの様なおかげ下さる。同時にそして昨日は( ? )とりました様な、いうなら風間鳥のお知らせを頂いたと言う事はね。最低の自分が分かると言う事。
 そこからあれもおかげであったこれもおかげであったと言う事が分かって行く、と言う事はもうおかげを頂くのに、すぐ前のいわゆる前提だと言う事、自分が分かると言う事はね、ご飯が出来た時におる人が( ? )手を引いた。もうご飯が出来とると言う、だからそれを降ろしてもってきに、ママになる所のおかげが頂けれる前提だから、どうしても自分と言うものを、ぎりぎりに極めなければいけない。そこには不平も無からなっければ不足もない。
 最低な自分、そしてあれもおかげであるこれもおかげであると、いうなら一番下のところからですから、その上に現れておる一切のものがおかげであると、実感できると言うのが、その日の御理解でしたね。今日一番始めのところに、目に見えるおかげより目に見えぬおかげの方が多いと言う事を、分からして頂くための御理解を聞いて頂きました。きのうはここに昨日は珍しく大勢( ? )、秋永先生が今度関係教区の幹部研修会に、ここから綾部さんと秋永先生と二人で、ちゅうことでまぁ結局問題の焦点と言うのは。
 御取次成就信心生活運動の、( ? )の生活について、だから暮らしとられる先生も、いっちょん私も分からんと言われた。御取次成就信心生活( ? )と言う事はどう言う事ですかと。具体的に言うてもわからん。本部からそう指令が来とるからそう言うて、後の事は気にしておるのがこの会。御取次成就信心生活運動、もう( ? )トップはどう言う事かと。例えば具体的にどうかと言うので、まぁ合楽的にはどう( ? )させられるかと言う事で、そして秋永先生がおかげを( ? )。
 言うならば何と言うても、( ? )乱して( ? )の様に、いうなら理不尽的な金光教に、教団の現状を何とかしてこれをどうかしなければと言うのが推進運動。でそれがその運動のためには、だからいよいよ焦点になったところは、お互いの情念が足りないと言う事になった。これはあらゆる今の本部からこうこれには書いてある、やはり取次者であるところのそのう先生が、信者を思う情念が足りない。だから自分の子供が( ? )、ためには一晩修行かかせぬ御祈念しとるけれども。
 信者の子供が具合が悪いと言うたって、そげな先生がおらんごとなっている。いわゆる一信者が助かることさえ出来ればというな、そういう親切な心がだんだん薄くなってきた。ならお取次ぎをさしてもらうだけじゃなくて、ならありそのういわゆる合楽じゃ示現活動ですね。それこそ実意丁寧愛の心を持って、人に伝えていくと言う様な事であっても、情念が足りないから、人に伝えていくと言う意欲も出会いと言う様な話になったと。でその日の当時の青年会の方達にいつもの、( ? )( ? )けれども。
 その話の中でもやっぱその問題が出ます。だから私が申しましたんですけれども。あのう信者に対する情念、なら私達はならどんな難儀な問題を持って来たって、なら寝ながらお取次ぎする事もあった。布団の中でお願いする様な事もあった。そうにゃその人の事も一生懸命その気にかけてお願いする事はなかった。それでもおかげを頂いた。たまには本当に冷たくあしらう様な事もあった。昨日ある方がお参りして来て、今日どうでもどうでも50万円お金がいるとこういう。そこでお届けしてお願いしてなら帰られた。
 帰られてから今度はそのう、あちらどこを回っても出来んもんだから、同じ信心友達の所へそのう、ちょっとその相談に行かれた。所が自分が丁度お金を人に貸してしまってる所で無いから、それでももうあのうお許しのお取次ぎを頂いてから、お許しを頂いたら又教会へ帰って、今ありませんからとにかくお取次ぎを頂きましょうと言うてすぐ電話お掛けた。それでならあのうあなたが今貸しておられると言う所に、手を打ってそれだけの金が返って来る時にゃ出来るとこまで貸してあげなさい。
 もうでなかったらあのうきっぱり断って、その人の事をしっかりお祈りをしてと言う訳なんです。その方は無理が出来る方なんですよ本当に。それでもやっぱりそのうこれもやぱり手前その実感として、あのうただ頂いたもんだから( ? )今日まで、ところがどこ行っとるやら分からんと言った様な事で、とうとう出来ん事になった。それでその旨を( ? )でこちらへ。したらそのうちにだからどうでもなら私としてはおかげいただいてもらわれるけ。
 と夕べ電話掛かって来たご本人から、もう本当にお繰り合わせ頂いて50万出来ましたぁと言うて、お礼のお届けがありました。これ何んか私の情念じゃないです。もう虫のお知らせなら、この度ぽんと突き放してある。こんなぷりんとなあるなら、あとはなら( ? )からやっぱ貸してやっとって下さいと。言うならいかにも親切のごたるけれども、私はそれと反対の事を言って。けれどもね、それでまたおかげを頂いたばい、だけですけれどもね。ならあのうそれを突き放されたけども。
 おかげ頂いたと言う事はどう言う事になるかと言うと、そのおかげを頂いたと言う事だけはなくて、それまでの神様の働き親先生の人情という目に見えないところが、ずうぅと過去がついてきょるでしょうが。ところがやっぱり( ? )出来とんなさいますだから、そこにきがおかげ頂いてなら、いうなら目に見えないところに神様のおかげが( ? )( ? )あろうとこう思う。でもこうやっぱりもう月末が来るのに手形が落ちないなら倒産と言う様なぎりぎりのところに。
 とてもあるところに金を借りに行かれた。それでそん時も私はその断れと、そしてから本人に私は言うて下さい、もう倒産したっちゃ構わんと思うて神様に縋れと言うて下さいと。ととのうた方がいいちゃろう。ところが聞いた本人は信心がまぁだここ半年か小一年ぐらいしかここにゃ参って来とらんとじゃから、もう合楽参りすりゃ倒産したっちゃよかちゅうたけもうカンカンに腹掻いた。そればってんおかげ頂いた、もう本当にぎりぎりでおかげを頂いた。
 ぎりぎりでおかげ頂いたばってん、親先生がそんな事言うたって2、3日参って来じゃった。たらそれで同じ信心友達のひとが、もうあんたとそげな第一あんた命を頂いたとじゃろが、そしてそんならね親先生が倒産して構わんというのは、そういう心持ちになって願えちゅう事で、倒産したっちゃよかちゅう事じゃない。そりゃもう懇々と話した。それから私の事分かり参って来てくれました。こう言う事なんかでも本当に信心が薄いなら、腹の立つようないうならば情念じゃないです。
 だから私は昨日熊本の、鹿児島の先生方にもますます( ? )本当に信者に対する思いが足りんけんてんなんてんて言う事じゃなかろうが。神様に対する情念が足らんとと言うて話した。神様に対する情念が足らん。例えばビリグイの末永先生がばいりんにあるにお参りがない。そういう中にちょうどサンパウロの教会の祭主を務めてくれと言う事であったから、わざわざここからちょうど御本部までの道のりがあるところですサンパウロにはビリグイまで。
 8時間もかかってあちらへやらして頂いて、そしてその翌日障害者のあれをしなければなりません。その翌々日いわゆるあちらでは( ? )方も( ? )とにかく信心者のあると言うので、その人に連れて行って貰って回る事になった。ところが末永先生がどげん思うても、ビリグイの神様が待ってござるごとして、待ってござるごとして堪えんからもう帰って来た。その情念とはそれです。そしたら始めての日系人たちのお参りがあっとたとの実感。
 それでまたそのお取次ぎお願いえを頂いてから、またその晩そのうサンパウロの方へやらして頂いた。しかも1時間2時間とではないね。こっからご本部まである所を行ったり来たりしてからでも、神様が待ってござる様な気がしてならない。これが情念。日奈久ぐれい言いよりましたが、その情念が足らん。例えば甘木の親先生でも、久留米の石橋先生当りでも、お徳を受けられた方達は神前に対するその情念が大変強かった。だから90%までは助かったと言う話がもう本当の事の様にしてあったと言われる。
 そげな事じゃないです。もう信者にはたいてい冷たく当たっておられる筈です。ただ神様へ向けられる情念が誰よりも強かった。ところにかなり人が( ? )( ? )ない。お互い最近のなら( ? )信者、先生、しんぽしょうけんかわず。確かに神様に対する思いその念が足りない。ある元小説家巡査さんをしとられた方が、もうおかげを頂いてお道の教師になられた。である田舎町に布教された。もう丁度寒中ですからもう寒うして寒うして御結界に座っとって震えだす事寒かった時に。
 はぁ神様も寒かろうって、それこそ御扉開いてから真綿で御神体を包んだ。途端に自分の身体がぽっぽしてからどんなに寒い時でも、寒い思いをする様な事が無くなったというお話があります。私共もでも断食から断食に、こげん出がらしのお茶であったけれども、熱いお茶をそこに一服頂いた時に、神様にもこれをと思った途端にもうそのままあのう茶碗に、お茶を汲んで神様に丁重にお供えしてから。
 それ以来私はそうにゃ難儀な時であるけれど、お茶だけにゃ不自由した事がない。もう今日なんかでも不自由させんじゃないか、もうとにかく多すぎて困る様におかげを頂いて居る。こりゃもう最高のお茶を。それは( ? )( ? )( ? )だね。そういう神様へ対する情念が足りない。私達がもう何十年前になりますか、宅祭りの時にお供えが全部で来てお三宝に一辺空けてある。( ? )( ? )からもうお祭りは始まる前にスイカがお供えがあった。
 けれどもね、やっぱり冷たいところせにゃ一切沈まれん。( ? )てございます。それなんですよ。情念が足りない。神様に対するその情念が湧いてくる様になりますとです、もう形じゃないです。心と心が神様との交流するところからです。信者を大事にしなければおられない。信者に対する情念も又おのずと起こって来るのです。その情念があるのがゆくにたい情念として現れて来る場合もあるし。暖かい熱いような情念もま守って来るです。目に見えるおかげより目に見えぬおかげが多い。
 そこで目に見えるおかげは( ? )の時代にならはぁよう( ? )ならそのもうお金の( ? )して分らんと言った様に、ここまでおかげを頂くためには、いかにも親先生が冷たいごたあるけれども、それまでになら親先生が祈っておって下さった、神様の働きと言うものは目には見えないけれども、自分の周辺に十重二十重そういう祈りがあっておったと言う、神様に見えないおかげが感じられる。ときに言うなら感動も起きて来る、いうなら神様に対しての情念もまたである。
 そっからもう限りなく、あれもおかげであったら、是もおかげであったろうと分かって来る。だからお礼をいうやにより広がって来る。とにかく有り難いと言う心が広がって行く、それが育って行くと言う事が信心なんです。その有り難いと言う心でなからなければです。いわゆる気が付かなかったり、言うならば、あれもおかげ是もおかげと言う事になってこない。
 目に見えないおかげが分かる様になったら、目に見えてるおかげが百であるとするならば、目に見えない所は千も万もあるです。それが分かって来るから千も万も有り難いと言う事になっ来る。そのだっから千も万もの有り難さで、又おかげを頂き続ける事が出来ると言う事になるです。今日は眼に見えないおかげを分からして頂く為に、神様に対する思いの念、情念を掻き立てると言うか、何かそういう見本を見せてさせて貰うね。
   どうぞ。